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記事一覧(52)

バルセロナでの感動から2年が経過。

2016年の今頃は、バルセロナ~アムステルダム5泊7日の旅をしていた。7月14日に東京を発って同日にバルセロナ入りして、15日と16日に『ROCK FEST BARCELONA』を観て、17日は同フェスの最終日を諦めてアムステルダムに飛び、ちょうど欧州ツアー中だったNOCTURNAL BLOODLUSTを観る、というスケジュールだった。この旅における最大の目的は、LOUDNESSを海外で観ることにあった。彼らはこの『ROCK FEST BARCELONA』に前年に続いての出演で、しかも3日間のフェス全体を通じてのヘッドライナーというべきIRON MAIDENの演奏直後にステージに立つという好条件。この機会は絶対に逃したくない、と思った。なにしろ〈日本が世界に誇るべきバンド〉みたいなことを散々書いてきたのに、僕はそれまで一度もLOUDNESSのライヴを日本の外で観たことがなかったのだ。もちろん彼らが成し遂げてきたことの大きさは重々承知しているが、それを自分のなかでもっとリアルに実体験しておきたかった。そんな気持ちに突き動かされ、おもわず格安航空券をポチッと予約し、初めてバルセロナを訪れたのだった。結果、この旅は自分にとってとても有益なものになったと感じている。それまで信じていたことについてさらなる確信を持てたことで、浅草国際劇場でのデビュー・ライヴ(1981年)から観てきた僕自身と同世代のこのバンドは、自分のなかでよりいっそう大切な存在になった。ついさきほどまでIRON MAIDENの楽曲群をひとつのこらず大合唱していたオーディエンスがLOUDNESSのステージに熱狂している。そんなさまをステージ上の機材の陰から体感しながら、なんだか自分もまだまだ夢を捨てることなく走り続けるべきなのだ、と感じさせられたものだ。そのLOUDNESSは現在、ちょうどヨーロッパ各地を巡演中だ。彼らの旅がまだまだ続いていくのと同じように、僕の旅もまだまだ終わらなくていいのだと思えてくる。さあ、今日も頑張ろう。

約4週間のご無沙汰でした。

ああびっくりした。俺、6月12日以来まったく更新していなかったんですね。怠けすぎにもほどがある、という感じ。というか、怠けていたつもりがまったくないからこそ、結果的にこんなにもブランクが長くなっていたことに驚かされたわけなのだけども。ずっと更新できずにいたのは、この場に何かを書く以前に書かなければならないものがずっと山積みになっていたからだ。単純にいえば『MASSIVE Vol.31』の制作期間中だったからでもある。これを作っているときの僕の作業は、通常の〈依頼を受けて、取材して、書く〉というプロセスだけでは終わらない。誰を取材するかを決めるのも、その取材のブッキングをするのも、フォトグラファーやデザイナーとの打ち合わせも、記事の並べ方と各々のページ数を決めるのも、記事にタイトルなど付けたりするのも、原稿チェックの手筈を整えるのも、僕の仕事だ。だから、しんどい。だけどもこの『MASSIVE』だけは〈自分の雑誌〉として作らせていただいているので、取材と執筆以外のすべては丸投げ、というわけにはなかなかいかない。今回の作業にあたり、僕はひとつ、とんでもない計算間違いをしていた。lynch.の巻頭特集記事を、1本と数えていたのだ。実際にはメンバー5人の個別ロング・インタビューが掲載されるわけで、それは記事5本分に相当する。事実、それだけで50ページ以上あるしね。そして結果、この巻頭特集をまとめるのに、想定していた何倍もの時間を要してしまった。しかし当然ながら締め切りは変わらない。あとはもう、時間との闘いだった。7月2日には恵比寿・リキッドルームにて、何がなんでも絶対に観たかったSTONE TEMPLE PILOTSの一夜限りの東京公演があったのだが、今回の号にまつわる僕の全作業が終わったのは、その日の19時25分のこと。幸いこの夜のライヴの開演時刻は19時30分だったので、そのまま着替えもせず家を出てタクシーに飛び乗り、会場へ。冒頭の3曲ほどを観損ねてしまったが、そこから先は存分に楽しませてもらった。そしてこの『MASSIVE Vol.31』は無事に印刷へとまわり、あとは7月11日の発売を待つばかりとなった。〈本ができてきてみたら中面が真っ白だった〉という夢を見たことがある同業者は少なくないはずだが、僕も実際、それに類する悪夢を何回も見たことがある。幸い、それが正夢になったことはまだ一度もないけども、今回もなんとか無事に店頭に並んでくれることを願っている。そして同じく7月11日に発売を迎えるlynch.渾身のニュー・アルバム、『Xlll』にも是非注目してほしい。このアルバムについては当然ながら誌面でもたっぷり書いているが、この場でも改めて何か書きたいと思っている。もちろん、他の掲載アーティストについても。

久しぶりに全米チャートに興味津々。

前にも書いたが、70年代、高校生の時分には、ラジオ関東とFENでオンエアされていた『全米TOP 40』を毎週欠かさず聞いてチャートをノートにつけていた。80年代になって編集者になってからも、1998年にフリーランスになってからも全米チャートはわりとマメにチェックしていたのだが、最近はめっきり見なくなっていた。というのも、「アレとコレとではどっちが売れているのか?」みたいな興味を持つような対象が減ってきたのと、アメリカのチャート動向が日本のそれにもたらす影響が年々感じられなくなってきたからだ。とはいえもちろん、日本から見れば何が意外なほど売れていて何がそうでもないのかなどについては、仕事上の理由も含めてわりと把握しているつもりだが。このへんのことについてはまた機会を改めて書こうと思うが、今日、たまたたビルボードのチャートを眺めながら「そういやデジタルで先行リリースされているGUNS N’ ROSESの“Shadow of Your Love”はチャートに顔を出しているのか?」などと思い立って調べてみたところ、いわゆるシングル・チャートなどには名前がないものの、Top Mainstream Rock Songsというさほど重みを感じられない部門において、6位にランクされていた。このMainstream Rock という区分けの基準はよくわからないが、彼らの上に名を連ねていたのは1位から順にGODSMACK、SHINEDOWN、BAD WOLVES、GHOST、そしてKORNのジョナサン・デイヴィス。自分にとっては好き、もしくは気になっているアーティストの名前ばかりがそこに並んでいた。そうか、自分が好んでいる〈かつては時代のなかで革新的だったけども今や普遍性のあるものとして受け止められているロック〉は、どうやら現在においてはMainstream Rockということになるようだ。もちろんそうした枠組み自体はどうでもいいのだけども、これから先は、このチャートをチェックするようにしようかな、などと思った次第だ。

ベルリンで“Slither”を聴いた14年前の夏の話。

いよいよGUNS N' ROSESのヨーロッパ・ツアーが開幕。それと同時に飛び込んできたのは、なんと彼らが初日のベルリン公演でVELVET REVOLVERの“Slither”をプレイしたというニュースだった。「あら、“Shadow of Your Love”じゃないのね」というのは置いといて、やはり本当にこのバンドのツアーでは何が起こるかわからない。『NOT IN THIS LIFETIME』というタイトル通り、絶対にあり得ないと思っていたはずのことがこうして次々と現実のものになってくると、あれやこれやと期待したくもなるものだ。ただ、せっかくVELVET REVOLVERの曲をやってくれるのならば、“Slither”よりもアクセルに合いそうな曲があるような気がするけどもね。僕がベルリンで“Slither”を聴いたのは2004年8月のこと。もちろんその時はVELVET REVOLVERを観に行ったわけだ。まずはベルリンで観て、翌日には電車でハンブルクに移動してスラッシュのインタビューをして(当時『Player』誌に掲載されています)、そこでももう一度観るというコンパクトながらも中身の濃い取材旅行だった(はい、これも自腹です)。あの時もあの時で「こんなバンドを観られる日が来るとは!」という感慨があったものだ。しかし当時の自分に「14年後にはこんなことになっているよ」と2018年の現実を伝えても、きっと信じたりしないだろう。というわけで、14年前の写真をいくつか発掘してみたのでご紹介しておこう。またいつか、ベルリンとハンブルクを訪れる機会が巡ってくることを願いつつ。

『再検証:1991年というロック分岐点』@ROCK CAFE LOFT

6月2日の夜は、新宿・ROCK CAFE LOFTに二度目の出演。『再検証:1991年というロック分岐点』というテーマでトークしながらDJさせていただいた。文字にするとえらく堅苦しそうなお題目だか、一般的には「メタルが廃れ始め、グランジ/オルタナティヴが台頭し、ロックの首都がハリウッドからシアトルに移った年」などとされることの多いこの年が、実はそればかりではなかったということを、当時の取材体験談など交えながら検証……できたかどうかはわからないけども、実はロックの歴史のなかでもとても興味深い時期だったことを浮き彫りにすることができたのではないかと思う。当日はメモをとっておく余裕がなく、しかもかなりビールの摂取量も多くなっていたため(←言い訳になっていない)正確なプレイリストをここに記すことはできないのだが、順序はともかく曲目はこんな感じだったと思う。いくつか漏れがあるかもしれないが、その点はご容赦いただきたい。なお、1991年を検証するにあたり、1990年のうちにリリースされていたもの、1992年に入ってから世に出たものもかけているので「それって1991年の作品じゃないでしょ?」という突っ込みは無しということで。しかし、紹介し損ねてしまった音源が実はたくさんある。いつか改訂版をやらないといけないかも。Right Next Door to Hell/GUNS N' ROSESJealous Again/THE BLACK CROWESI Saw Red/WARRANTCherry Pie/WARRANTCall of the Wild/COMPANY OF THE WOLVESTease Me Please Me/SCORPIONSSigns(live)/TESLADon't Treat Me Bad/FIREHOUSEHigh Enough/DAMN YANKEESGreen-Tinted Sixties Mind/MR.BIGWhen I'm President/EXTREMEWhat You Say/SAIGON KICKI Do U/KINGOFTHEHILLTake My Soul/WHITE TRASHUp All Night/SLAUGHTER(Can't Live Without Your)Love And Affection/NELSONEverything About You/UGLY KID JOEAnarchy in the U.K./MÖTLEY CRÜE〈休憩〉Slave to the Grind/SKID ROWEnter Sandman/METALLICARadio Song/R.E.M.Smells Like Teen Spirit/NIRVANASmells Like Nirvana/ "WEIRD AL” YANKOVICRusty Cage/SOUNDGARDENWatcha Gonna Do(demo)/ALICE IN CHAINSMan in the Box/ALICE IN CHAINSEven Flow/PEARL JAMBed of Roses/SCREAMING TREESYou Love Us/MANIC STREET PREACHERSRight Here Right Now/JESUS JONESKill Your Television/NED'S ATOMIC DUSTBINYesterdays/GUNS N' ROSES

19年前の5月の記憶。瓦礫の山という宮殿。

 これまで3回にわたり海外での〈5月下旬の記憶〉について書いてきたが、やはりこの時期になると思い出さずにいられないのは、1999年5月30日に開催された『CAPACITY∞』のことだ。1989年5月29日に東京・町田PLAYHOUSE でライヴ・バンドとして始動したLUNA SEAが、その10周年を記念して行なった10万人規模の野外ライヴ。ところがその歴史的瞬間到来を目前に控えた5月27日、東京地方は国内観測史上最大級(当時)という強烈な突風に襲われ、ほぼ完成に近付いていた巨大ステージセットが完全に倒壊。誰の目にも公演自体が99%実現不可能という状況下でバンドは予定通りの実施を決意し、伝説的ともいうべき素晴らしいステージを披露したのだった。 僕がLUNA SEAと深い関りを持つようになったのもちょうどこの時だった。この『CAPACITY∞』を軸とするオフィシャル・ドキュメンタリー・ブックの制作に携わることになったのだ。もちろんこの本にとってのメインは公演当日の写真だが、僕は5月18日から公演当日までの日々をLUNA SEAを追いかけながら過ごし、その毎日を原稿に綴った。ドキュメンタリーはその18日の深夜(正確に言えば19日の午前)、5人がニッポン放送のスタジオで生放送に臨むところから始まっている。 本棚からこの本を引っ張り出して確認してみたところ、19年前の本日、5月29日の僕は、渋谷のTOWER RECORDSに出掛け、この日に発売された2枚組ライヴ・アルバム『NEVER SOLD OUT』を購入。そして同作を買うために来店したファンに話を聞く、という取材をしている。午後には、ゆりかもめに揺られて(あまり揺れないけど)国際展示場へ。それまでにも何度か設営状況などの取材のために訪れていた『CAPACITY∞』の特設会場のまわりには、「来たことのない場所だから下見に来た」「ステージの復旧が間に合うのかどうか不安で、気が気じゃなくて来てしまった」というファンの姿もたくさんあった。 公演当日、メンバーたちを乗せてこの場に舞い降りることになるヘリコプターの着陸予行演習も行なわれていた。あれがぶっつけ本番じゃなくて本当に良かった。というのも着陸時、砂ぼこりがものすごいことになっていたのだ。「これは水を撒いとかないと駄目だな」という声がスタッフの輪のなかから聞こえてきたのを憶えている。 そして29日の夕刻、愛車に乗って現れたSUGIZOは「10年前の今頃は、PLAYHOUSEの楽屋でメイクしてたな」とつぶやいていた。この公演が、本当の10周年記念日である5月29日に行なわれていたなら、おそらくステージの復旧作業は間に合っていなかったはずだ。僕はそのことについてこの本のなかで、次のように書いている。〈運命は彼らを弄び、試練を与えつつ、首の皮一枚の可能性を残したのだ〉と。 それからさらに19年を経た今夜、今年も僕は日本武道館でLUNA SEAを観ることになる。このバンドとその音楽に出会えたことに、改めて感謝したい。そして『NEVER SOLD OUT』というライヴ・アルバムのタイトルについては今も、〈絶対に売り切れにならない〉のではなく、決してセルアウトしなかった、すなわち〈魂を売り渡さなかった〉という意味なのだと勝手に解釈している。

13年前の5月の記憶。ベルリンで自らの壁を壊したDIR EN GREY。

 さて、今回は13年前の今日のことを書きたいと思う。2005年5月28日のことだ。その日、僕はドイツのベルリンにいた。DIR EN GREYの初の欧州ツアーに同行するためだった。たくさんのツアー・クルーやマネージメント関係者とともに大型サイズのバス(ベッドがたくさん設えられたものではなく、むしろ観光バスのような感じ)に乗り込んでのツアーは、どこかプロレス団体の巡業のようでもあったが、一行のなかに自分以外にはいわゆるライターはおらず、僕は同ツアーについてのニュース原稿やら何やらをすべて現地で書くことになった。考えてみたら、ノートパソコンを使うようになったのもこの時のことだったように思う。それまでは原稿といえばワープロで打ったものをフロッピーディスクで渡すのが常だった。 偶然にも僕は、その数ヵ月前にもベルリンを訪れていた。VELVET REVOLVERを観るためだ。しかもDIR EN GREYの公演会場はそのときと同じColumbiahalle。だから事務所の担当者から情報をもらった時にも「あ、そこなら行ったことがある!」とすぐさま反応してしまったし、実際、現地でもまずは公演前日に何人かのスタッフを引き連れて地下鉄で会場に向かったのだった。すると、そこにはすでに前日からそこで徹夜しているというファンが行列をなしていた。 ここで、その13年前のベルリン滞在中に書いたニュース配信用原稿をそのまま掲載しようと思う。今の僕が当時を思い出しながら書くよりもきっと正確だろう。表記などをいくつか修正している以外は(それこそ当時はDir en greyという表記だったしね)すべて当時の記述のままである。

27年前の5月の記憶。インディアナでの奇跡と、シアトルでの大佐腹痛事件。

今回は、1991年5月の話。この時も僕はアメリカにいた。すでにBURRN!編集部が発足してから7年が経過していて、おそらくこれが10回目ぐらいの渡米だったのではないかと思う。MEGADETH、SLAYER、ANTHRAXによる三つ巴ツアー『CLASH OF THE TITANS』(しかもオープニング・アクトはALICE IN CHAINS!)のサンフランシスコ公演を5月26日に観て、28日と29日はインディアナポリスでGUNS N’ ROSESとSKID ROWを観て、30日にはシアトルでふたたび『CLASH OF THE TITANS』を観て、31日にはL.A.のスタジオにブラック・アルバム制作中のMETALLICAを訪ねる……というえらく濃密にしてめまぐるしい取材旅行だった。とうてい一人ですべてを取材できるはずもなく、この時は同僚の平野和祥記者も一緒だったし、インディアナポリスとシアトルではロンドン在住のカメラマン、ジョージ・チンとも合流。たとえば『CLASH OF THE TITANS』のサンフランシスコ公演の際は、ライヴ・レポートを完全に平野記者にまかせ、僕はバックステージを駆け回って4日後のシアトルでのインタビューの話を取り付ける、といった具合だった。僕が各バンドのツアー・マネージャーと交渉している頃、武道館で言うところの南スタンド席でノートを広げてメモを取っていた平野記者は、元気のいい現地のキッズから「何してんの? 宿題?」と冷やかしの声を浴びせられていたらしい。とにかくこの出張時にはさまざまなことが起きたのだが、やはり印象深いのはインディアナポリスでの出来事だ。この件については当時のBURRN!の誌面でも触れているし、一昨年の6月に刊行された『ガンズ・アンド・ローゼズとの30年』のなかでも書いているが、この時の僕はイジー・ストラドリンの〈もしかしたらGN'Rの一員としては最後だったかもしれないインタビュー〉に成功してるのだ。しかもそれはこちらから事前にリクエストしていた取材ではなく、完全に予定外のもの。当時、マネージャーのダグ・ゴールドステインにもコントール不能な状態にあったイジーが、1988年末の来日時に会っていた僕の顔をなんとなく憶えていたようで、開演前のバックステージで彼の側から「俺、今、インタビューできるよ」と言い出してきたのだった。慌てた僕は「ちょっと待って。一応ダグに断りを入れておくから」と答え、そのダグを見つけて訊いてみると「信じられない。奇跡だ。今後いつやれるかわからないし、是非やってくれ」といった返答。そしていざインタビューを始めてみると、彼の口からは、当時まだリリースされていなかった『USE YOUR ILLUSION Ⅰ/Ⅱ』についての「俺に決定権があったなら2枚同時発売なんてことはしなかった」的な発言や、ライヴのあり方などについての疑問も聞こえてきた。もちろん終始なごやかなムードではあったのだが、それが僕にとっては、GN'Rの一員としての彼に向き合う最後の機会となった。そんな貴重な取材をもぎ取った翌日にはシアトルに移動し、『CLASH OF THE TITANS』の会場でジェリー・カントレル&ショーン・キニー、スコット・イアン、トム・アラヤ、そして牡蠣にあたってお腹をこわしていたデイヴ・ムステインのインタビューをした。彼の目の下には隈ができていて、おそらく40分ほどだったはずの取材時間中、何度かあの声で「ごめん」と言って席を立ちトイレに駆け込んでいた。ライヴ中の彼は、なんとか無事だったのだが。SLAYERのデイヴ・ロンバードに、人気投票ドラマー部門のチャンピオンカップを贈呈したのもこの時だったな。というわけで、こういう話も忘れないうちにちゃんとまとめておかないとなあ、などと感じている、あれから27年後の日曜日の朝なのだった。ちなみに今週土曜日、6月2日の新宿・ROCK CAFE LOFTでのイベントでも、このへんの話はしようと思っている。http://www.loft-prj.co.jp/schedule/rockcafe/88654

35年前の5月の記憶。初渡米と巨大フェス初体験。

5月のこの時期になると、かならず思い出すことがいくつかある。まず今回は、1983年の話を。その年の5月下旬、僕は初めてアメリカに飛んだ。カリフォルニア州サンバーナディーノで開催されていた『US FESTIVAL』を観に行くためだ。海外旅行自体もそれが初めてだったし、当然ながらパスポートを手に入れたのもその時のことだった。当時の僕はまだ一応大学生で、オリコン・ウィークリー編集部のバイト君。時給は500円未満。当然ながら取材なんかじゃないから(結果的にオリコンにちょっとした記事は書いたが)、すべて自腹だった。このフェスは5月28日から3日間にわたって行なわれ(厳密に言えば6月4日に4日目にあたるカントリー・デイがあったが)、28日はTHE CLASH、30日はデヴィッド・ボウイがヘッドライナーだった。が、僕の最大の目当ては29日のヘヴィ・メタル・デイ。『METAL HEALTH』が出てからまだ間もない頃のQUIET RIOTをオープニング・アクトに据えながらの同日の出演ラインナップは、MÖTLEY CRÜE、OZZY OSBOURNE、JUDAS PRIEST、TRIUMPH、SCORPIONS、そしてVAN HALEN(以上、出演順)という超豪華なもの。オジーに関してはジェイク・E・リーの正式なお披露目の場がこれだったはずで、翌年に『1984』を出すことになるVAN HALENは、これがこの年唯一のライヴだった。ライヴを観ながらメモなんかとっちゃいなかったし、小さなカメラを持参してはいたもののフェス会場での自分の写真も皆無。だからその時のことを書こうと思うと記録ではなく記憶を頼りにするしかないのだが、とにかく何もかもがデカくてすごくて驚きの連続だった。ホテルの朝食で食べたオムレツのサイズに始まり、歩けども歩けどもステージに近付かない会場の敷地の広大さも、観客の数も(当時、メタル・デイの動員は35万人と発表されていた。多分そこまでいなかったはずだけど)、MÖTLEY CRÜEの演奏のヨレヨレ具合も、日本では考えられないほど黄色い歓声を集めていたTRIUMPHの人気ぶりも。そしてもうひとつすごかったのは交通渋滞。僕は旅行会社の企画した団体旅行(とはいえ自分を含めてわずか6人だったけど)に参加していたのだが、宿泊先のパサディナのホテルから会場までの往路は車で30分もかからないくらいだったのに、初日のトリであるTHE CLASHのライヴが24時頃に終わっり、ホテルに戻れたのは深夜というよりも明け方のことだった。ちょっとだけ眠って翌朝ふたたび会場へと向かいメタル三昧の時間を過ごし、同じように明け方にホテルへと帰還。その時点で僕はなんだかもう充分に満足してしまい、なおかつ充分過ぎるほど疲れてしまっていたので、フェス3日目はパスすることにした。というのも、その次の朝には帰国の途に就かなければならなかったのだ。3日目も観に行っていたら、僕は帰国便を逃していたかもしれない。なにしろ3日目も観に行った人たちがホテルに戻ってきたのは、翌朝、帰国組がホテルのロビーに集合した頃のことだったのだ。記憶が定かではないが、確かその3日目参加組は延泊していたのだと思う。そんなことはどうでもいいのだが、僕がいわゆるフェスというものを初めて体験したのがこの時のことだった。それから35年もの年月が経過していることに自分でも驚かされてしまうが、あの時、思い切って渡米したことは自分にとってとても良い経験になったと思っている。ちなみに当時の僕はまだクレジットカードなど所持しておらず(というか、まだまだ持っていない人が多かった)、すべては現金払い。飛行機は南回りのホノルル乗り継ぎ。毎週ツバキハウスで顔を合わせるような友人たちから頼まれたTシャツやパンフが大量に詰まった重い荷物を引きずりながらフェスの最初の2日間を過ごした。ライヴハウスでビールを呑みながらバンドを観たことはすでにあったはずだが、青空の下、広大な場所で、大音量で好きな音楽を楽しみながらのビールこの時が初めてだったように思う。1983年5月。考えてみればそれは僕がBURRN!誌の創刊スタッフとして誘われることになる、ちょうど1年前のことだった。創刊がもう1年早かったならば、このフェスのレポートが同誌に掲載されていたのかもしれない。

MASSIVE、ようやく30号目。そして次に目指すのは……?

5月23日、MASSIVE Vol.30が発売を迎えた。前号が29号目だったから今回が通算第30号になることはあらかじめわかっていたわけだが、やっぱりこうして数字的な区切りに到達すると、少しばかり感慨めいたものがある。自分を褒めてやりたい、という言葉はあまり好きではないが、ちょっとは労わってやりたいという気分になるものだ。MASSIVEを作ることにした理由のひとつは、音楽雑誌が年々減り続けていることにある。僕のような職業の者にとってそれがどういうことに繋がるかというと、単純に収入減が減るというのも当然あるわけだが、それ以上に「長きにわたり培ってきた取材対象との関係性が壊れてしまい兼ねない」というのがある。ことに国内アーティストの取材については、同じ媒体で同じライターが継続的に取材を担当していくケースが多い。しかしそこで雑誌自体が休刊ということになると、それまで毎月のように取材してきたアーティストについて「来月は待望のニュー・アルバムが出るというのに、自分には取材の場がなくなってしまうのか?」ということになってしまう。実際、デビュー当時から取材させていただいてきたDIR EN GREYにしろRIZEにしろ、僕が記事を書く場は時間経過とともに移り変わってきた。UVERworldについても清春についても同じことだ。が、ひとつ雑誌がなくなるたびに、そのアーティストについて書く次なる場を見つけることもだんだん難しくなってきた。だから、MASSIVEのような、基本的に自分ですべて決められる場を設ける必要が出てきたのだ。MASSIVEの制作過程において打ち合わせは何度かあるけども、編集会議は一度もない。それは、僕自身の頭のなかで行なわれるものでしかない。自分で決めて、自分で話をつけて、自分で取材し、自分で書く。そういう本を30冊作ってきたのかと思うと、「よくやったな!」と褒めてやるよりも「おまえ大丈夫なのか?」と問いかけたくなる。なにしろMASSIVEを作り始めた頃、僕は今より7歳も若かったのだ。正直、これまでと同じペースであとどれくらいこの本の制作を続けられるかは自分でもわからない。昔は全然平気だった徹夜仕事もできにくくなってきているし(というか、できればやりたくないし)、原稿を書くスピードも、少しは落ちてきているんじゃないかという気がする。が、こうして作り続けていくなかでもしも本当に「もう無理!」という局面が訪れたなら素直にギブアップするので、それまではちょっと無理をしてでも続けていこうと思っている。で、いつか「そろそろ終わるべきかな?」という時期到来を具体的に予知したなら、誰かの判断で終わらされる以外に道がなくなってしまうちょっと前までに、次に進むべき道を用意しておかねばと思う。しかしとりあえず、こうしてVol.30が無事に世に出た今は、Vol.31をきっちり作り上げることが次の目標だ。というわけで、まもなくその31号目のための打ち合わせへと向かいます。脳内での第一回目の編集会議が、ようやく終わったので。

あれから4年。そしてまだまだ人生は続いていく。

5月13日は代々木Laboで首振りDollsのワンマンを観て、ホントはすぐに帰宅して原稿を書くべきだったのだけども、やっぱり新宿まで足を延ばしてしまった。行き先は歌舞伎町のFROM DUSK TILL DAWN。この日は『YOKO4年祭』。このバーの店主だったUNITEDの横山明裕が亡くなってから、早いものでもう4年の月日が流れてしまったのだ。本当はこの夜、DJとしての出演依頼を受けていたのだが、ライヴもあれば締め切りのさなかでもあるということでお断りしていたのだった。あれは4年前の同じ日の未明頃のことだった。携帯(まだスマホじゃなかったな)の音で目を覚ますと、電話の主は現在この店を引き継いでいる女将(笑)のROMIさん。てっきり「誰々が呑みに来てるんだけど今から来るのはさすがに辛いですか?」みたいな悪魔の誘いなのだろうと思って応答してみると、信じ難いことに横ちゃんの訃報だったのだ。その日の夜、営業しているはずもない店に、何故か足を運んだ。重い扉を開けると、常連客の方々が何名かいらして、涙目をしたROMIさんが顔をあげた。僕の顔を見た時の彼女の第一声は確か「助かった!」だったと思う。彼女はパソコンと格闘しながら、横ちゃんの急逝と当面の休業についての告知文を作っていたのだった。僕はその場ですぐさま作文を始めた。ニュース原稿を書き慣れていることが、こんなに役立ったことはなかったように思う。あの日から丸4年。「俺ももうちょっと健康に気を付けないとな」とか思いながらも、わりと体調を維持できていて、眠れば大抵のことが解決してしまう鈍感な体質に甘えて、あまり自分の身体の内部については詳しくないままでいる。酒についても、何度か控えようと思ってみてはその気持ちを翻し、今も呑みたい時にはそれなりに呑み続けている。それでも有難いことに、毎日の生活が続いている。そんな幸運な現実に甘えすぎることなく、これからも無理が生じないかぎりは今のようなペースでライヴを観て、お気に入りの店に足を運び、たくさん取材をして、締め切りと闘い続けていきたいと思う。そんなことはともかく、朗報がひとつ。待望のUNITEDのニュー・アルバムの完成が、いよいよ近付いてきた。レコーディング自体はすでに終了していて、どうやら作品自体に関する詳細もそろそろ情報解禁を迎えるようだ。UNITEDというバンドにとってのLIFEも、まだまだ続いていく。横ちゃんがびっくりするような名盤の到着を、僕は心待ちにしている。