大晦日に『紅白歌合戦』を見なくなったのはいつ頃からだったのだろうか。幼い頃は当然のように見ていたし、最後まで見届けること(=ずっと起きていること)を大人への第一歩のように感じていた頃もあったように思う。お目当ての歌手はほとんど前半のうちに出尽くしてしまい、後半へと進んでいくにしたがって親たちの好きな人たちばかり出てくるものだから徐々に飽きてしまい、なんとか紅白を最後まで見て『ゆく年くる年』で除夜の鐘の音を聞いてやるんだ、という幼い野望は呆気なく打ち砕かれてしまうことが多かったのだが。
実際、あの番組を見なくなったのは、洋楽やロックへの目覚めとも無関係ではなかったと思う。あれは確か、1976年の大晦日のこと。紅白の裏番組で、その年に行なわれたオリビア・ニュートン・ジョンの武道館公演の模様が放映されたことがあった。厳密に言うと、番組の前半がオリビアで、後半はサルバトーレ・アダモの来日公演(こちらも確か、会場は武道館)だったと記憶している。歌謡曲に興味のない洋楽ファンを引き寄せようという某テレビ局の狙いは明らかだった。
悲しいのは当時、まだ自宅にホームビデオがなかったこと。さらに悲しかったのは、その年に限って年末年始を母親の郷里である宮崎で過ごしていたこと。それでもどうしても見たかったから、泊まっていた母の実家で尋ねてみると「ならば爺様の部屋で見ればいい」という。当時すでに高齢だったお爺ちゃんは、普段からベッドに寝転がったままテレビを眺めて過ごしていることが多かったが、番組内容はどうでもよく、とにかく何かが流れていればいい、という感じだったのだ。
それで結果、みんなが居間で炬燵に入って紅白を見ている時に、僕は別の部屋でオリビアを見ていた。テレビの前にはラジカセを置いて、自分にとって2回目の洋楽ライヴ体験となったその来日公演の模様を録音しようと準備を整えていた。番組放送中、お爺ちゃんが話しかけてきませんように、と祈りながら。
とはいえ、そこまで都合よく物事は進まない。お爺ちゃんは何度かお茶が欲しいと声を掛けてきたし、トイレにも立った。しかも耳が遠いものだから声も大きいし、何か言われるたびにこちらも大声で返事をしなければならなかった。テレビに映っている〈外国人の別嬪さん〉が誰なのかという質問も受けた。
そして、実際にライヴを観た時にも感じたことだったが、当時のオリビアはあまり歌が上手ではなかった。バラードを丁寧に歌っている時はいいのだが、アップテンポの曲では音程のふらつきも目立った。というか、「そんなにステージをぴょんぴょん飛び跳ねながらまともに歌えるわけないじゃん!」と素人ながら思わされたものだ。しかもそうした歌唱の不安定さは、やけに歌ばかりが前に出た当時のテレビならではのミックスのせいで、必要以上に強調されてしまっていた。
結果、その際に録音した、ところどころにお爺ちゃんとの会話が飛び込んでくるテープはほぼ聞き返すことがなかったし、いつのまにかどこかにいってしまった。今となっては、お爺ちゃんとのひとときの記憶のためにも保存しておけばよかったと思うのだが。
そういえば当時、「洋楽の紅白があればいいのに!」などと思いながら、勝手に対戦カードを妄想して楽しんでいたりもしたものだ。やっぱりトリはオリビア対エルトン・ジョンかな。いやいや、トリを務めるのはオリビアにはまだちょっと早いかな。紅組がリンダ・ロンシュタットなら白組はイーグルスかな、とかね。結果、これを考え始めると、いつも紅組の出場者が足りなくなってしまい、そこで妄想は終わっていたのだけども。
今や紅白の裏番組といえば『笑ってはいけない~』か格闘技。我が家では今回も紅白を見ることはなかったけども、今の自分が洋楽紅白を妄想するとなると……やはり紅組の目玉はテイラー・スウィフトとレディ・ガガですかねえ。全プログラム終了後のグランド・フィナーレは紅白両チームの全出演者による‟We Are The Champions”の大合唱とか。あ、ラミ・マレックはきっと審査員に起用されていたりするんだろうなあ……などと、この種の妄想というのはいくつになっても楽しいものではあるのです。
エルトン・ジョンとオリビア・ニュートン・ジョン。
どちらも1975年の作品。
増田勇一のmassive music life
いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。
2コメント
2019.10.03 23:56
2019.09.25 21:47