Cheap Trickとhide。22年前の黄金週間の記憶。

いつも黄金週間が巡ってくるたびに思い出すのは、1998年のこの時期のことだ。

その年の春、僕は14年間ほど務めたシンコー・ミュージック(BURRN!に約9年、MUSIC LIFEに約5年居たことになる)を辞め、フリーランスになった。で、それまではずっと月刊誌の制作サイクルに縛られた生活を続けていたから、しばらくは解放感を味わってやろうなどと思っていたのだが、そんな矢先に飛び込んできたのが、Cheap Trickが彼らの出世作となったライヴ・アルバム『at Budokan』の20周年を記念しての北米ツアーを行なうというニュースだった。しかもバンドにとってのホームにあたるシカゴ(正確には同じイリノイ州のロックフォード出身だけども)では4月30日から5月3日にかけ4夜連続での公演が組まれ、初日は1978年の武道館公演の完全再現、第2夜以降は『Cheap Trick』『In Color』『Heaven Tonight』という初期3作をテーマとした演奏内容になるのだという。さすがにこれは我慢している場合じゃない。僕は迷わずシカゴ行きを決めた。

結果、シカゴ滞在中にはその4夜公演すべてを観て、メンバー全員にインタビューをして、しかもリック・ニールセン師匠の計らいで、彼らと一緒にリグレー・フィールドで野球観戦するという貴重な機会にも恵まれたのだった。同スタジアムは映画『ブルース・ブラザーズ』にも登場するが、彼らはそこにホーム・チームであるシカゴ・カブスの応援に行き、放送席で"Take Me Out To The Ball Game”を歌ったのだった。

正確には憶えていないが、たぶんライヴの前日にシカゴ入りして、4日間のライヴを観て、その翌日か翌々日には帰路に就く、というまるで出張みたいなスケジュールだったはずだ。日本到着はおそらく5月5日か6日だったのではないだろうか。せっかく会社を辞めていたのだから、もっとのんびりしてきても良かったはずではあるのだが。

ただ、帰国を急ぎたい理由がひとつあった。現地滞在中、自宅にいる妻に電話をかけて何か変わったことがないか聞いてみたところ、「お葬式の案内のFAXが届いている」と言われていたのだ。そして驚いたのは、故人の名前が松本秀人だったこと。言うまでもなく、hideのことである。

信じられなかった。ちょうど少し前に『ロッキンf』誌からの依頼で、ロサンゼルス滞在中の彼に電話インタビューし、その記事を書いたばかりだった。話の主題は完成したばかりのニュー・シングル、‟ピンクスパイダー”と"ever free”について。電話越しに話した時、「ライターの増田といいます……と言ってもわからないかもしれませんが」と自己紹介すると、彼は「わかりませーん」と答えた。そして「元BURRN!、元MUSIC LIFEの増田です」と言い換えると、「えーっ、“元”ってことは辞めちゃったの?」という言葉が返ってきた。「あっ、じゃあこれから一緒にいろいろできるじゃん」みたいなことも言われた記憶がある。

そんなタイミングでもあったため、僕は当初、その葬式の案内を信じていなかった。たちの悪い冗談というか、シングル発売に合わせての新手のプロモーションなんじゃないかと疑っていたのだ。しかしそれは、まぎれもない事実だった。シカゴから戻ってきて、届いていたFAXを確認して、5月7日には築地本願寺に向かった。ごく短期間のうちにあまりに多くのことが起きたせいで、何がなんだかよくわからなくなっていた。

今年もまた5月2日、hideの命日が巡ってくる。1998年のその日、僕はシカゴにいて、Cheap Trickの4夜公演を堪能していた。あの年に『at Budokan』は20周年という節目を迎えたが、それから現在までの間には、すでにそれよりも長い22年もの年月が流れている。そして少年期のhideも親しんでいたであろうCheap Trickは、今も現在進行形のまま続いている。

あれ以来、毎年この時期を迎えるたびに、1998年のあの日々のことを思い出しては、時間の流れ、人と人との縁の不思議さについて考えさせられる。あの年、シカゴに行っていなかったら、僕は自分であのFAXを手に取っていたのだろう。それ以前に、まずあの時期に会社を辞めていなかったらシカゴに行くこと自体も叶わなかっただろうし、hideにインタビューする機会もなかったはずなのだ。

というわけで、今はそのシカゴでの4夜公演の際に収録された音源で構成されたCheap Trickのライヴ・アルバム『Music For Hangovers』(1999年)を聴きながらこれを書いている。このあとは、hideの『Ja,Zoo』を聴こうと思っている。そんなふうにして22年前に思いを巡らせる2020年が、あってもいいはずだ。

▲野球観戦時の1枚。メンバー全員が収まった唯一の写真がこちら。あの頃にコンパクトデジカメやスマホがあれば、もっとたくさん撮りまくったはずなのだが。当然ながら、自撮りもない。


▲この渡米時の記事は、自分が辞めた後のMUSIC LIFE(1998年7月号)で書いた。表紙が、Cheap Trickのライヴにもゲスト出演していた同じシカゴ出身のSmashing Pumpkinsだというのも少しばかり因縁めいている。

▲そして『ロッキンf』誌に掲載されたhideのインタビュー記事はこちら。

▲このインタビュー記事は、のちに何度か復刻されているはずだけども、最初に掲載されたのは1998年6月号だった。

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増田勇一のmassive music life

いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。