ランディの他界から39年。いつかあの頃の話を聞いてみたかった。

3月19日といえばランディ・ローズの命日。彼が飛行機墜落事故により亡くなったのは1982年の同日のこと。その年の7月にはオジー・オズボーンとともに初の日本上陸を果たすはずだった。その他界には不思議な喪失感があった。まだ一度も生で見たことのないランディは、年齢的には僕よりも5歳ほど上ではあったが、長いキャリアのある伝説的なロック・ミュージシャンたちとは違い、世代的な身近さがあったし、「デビュー当時から知っているミュージシャンが逝ってしまった」という衝撃を味わったのはあの時が初めてだったようにも思う。

彼がケヴィン・ダブロウらと始めたQUIET RIOTの最初の2作品は、日本でしかリリースされていない。久しぶりにレコード棚から1978年発表のデビュー・アルバム『QUIET RIOT(静かなる暴動)』を取り出して聴いてみると、その後のL.A.メタルに繋がるものというよりは、それ以前の英米のバンドのエッセンスがちりばめられているという印象で、実際、当時の僕はSTARZやREX、STRAPPSなどと同列で聴いていた。要するに、当時のMUSIC LIFE誌上で「三大バンド」とされていたQUEEN、KISS、AEROSMITHに夢中になり、「その次に来るのは誰だ?」的な興味で新しいバンドを見つけようとする中で彼らの存在に気付いた、というか、気付かされたのだった。

当時は音楽雑誌とラジオしか情報源のない時代。MUSIC LIFEや音楽専科、ROCK SHOWの記事や広告ひとつに影響されていたというか、素直に誘導されていたところが多分にあったように思う。なにしろこの1stアルバムの帯叩きの文句は「エアロスミスのヘヴィさとクイーンの華麗さを兼ねそなえ、チープ・トリック(イースト・コースト)に対抗すべくロスからデビューを飾った新進気鋭のハード・ロック・グループ。78年、暴動を巻きおこすデビュー・アルバム!」というもの(原文表記ママ)。これはもう、鵜吞みにせざるを得ないというか鵜吞みにしたくならないわけがないというものだ。

この叩き文句からうかがえるのは、発売元のSONYとしては、同社から出ているCHEAP TRICKの対抗馬として彼らを売り出し、相乗効果を期待していたのだろうということ。むしろQUIET RIOTは西海岸のシーンにおいてはVAN HALENのライバルだったはずだったのだが。実際、ROCK SHOW誌の1978年5月号には『ロサンゼルスは今、ハード・ロックのメッカです!』と銘打たれた『QUIET RIOTのL.A.案内』的な記事(この手法、シンコーミュージックの伝統芸のひとつです。僕も似たようなことやりました)が掲載されていて、VAN HALENについて「こちらではすごい人気で大きな期待がかけられているんだ。もちろん僕らの次にね」みたいな言葉がQUIET RIOT側のコメントとして掲載されていたりもする。今読むとなんだかせつないものがあるが、僕のような世代にとっては、この当時の記憶のあり方というのが、上の世代とも下の世代とも違うアイデンティティめいたものになってるような気もする。

ランディがあの事故に見舞われることがなかったなら、その後の歴史はどう違っていたのだろう? そうした「たら・れば」の話をすることは無意味かもしれないが、編集者としての僕はきっとタイミングを見計らいながら「日本でしか出ていなかったQUIET RIOTの初期2枚について、今だからこそランディが語る」というような取材を企画していただろうと思う。彼とケヴィン・ダブロウによる、当時を振り返る対談なんてのも読んでみたかった。そのケヴィンも2007年に他界しており、こうして天国にでも行かない限り不可能な取材がどんどん増えているわけだが、僕自身は生きている特権として「きっとこういう想いだったに違いない」という勝手な思い込みで妄想を膨らませながら、あの頃の音に触れ続けていこうと思う。

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増田勇一のmassive music life

いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。