2011年3月11日、消えることのない記憶と気持ち。

2011年3月11日の午後、突然の大きな揺れを感じたのは、都内の埋め立て地にあるビル内のスタジオでのことだった。フロアは5階だったが、いわゆる倉庫ビル的な建物だったので普通のビルにおける同じ階よりもずっと高い。そこではMUCCの逹瑯の撮影が行なわれていて、僕は撮影終了後にそこでインタビューをすることになっていた。ちょうど撮影のシチュエーションを変えることになり、逹瑯自身はヘアメイク再調整のために鏡に向かっていた。僕はその待機時間中の暇つぶしのために持参したPCを立ち上げ、メールを確認し、ツイッターを始めようとしていた。そこで最初のグラリが訪れたのだった。

それまで体験したことのないような、大きな揺れだった。しばらくすると揺れ自体は収まり、撮影は再開。しかしまた揺れ始め……。結果、早々に撮影を切り上げてインタビューは後日に順延ということになった。カメラマンの機材をバケツリレーみたいに手渡しで運び出すために階段を何往復かした後、MUCCの所属マネージメントの車に同乗さてもらい、長い渋滞を経て彼らの事務所付近で降車し、そこから徒歩で帰路に就いた。その夜には渋谷でライヴを観ることになっていたが、公演が中止になったことは移動の車中、ガラケーでチェックしていたツイッターで知った。ガラケーは電話としてはほとんど役に立たたず、帰路途中に路地裏で見つけた公衆電話でようやく妻と話をすることができたのだった。

結果、逹瑯のインタビューはその1週間後に実施され、『ROCK AND READ Vol.035』に掲載されている。また、同時期に僕は『MASSIVE Vol.2』を制作中だった。表紙+巻頭特集は吉井和哉で、撮影とインタビューは3月2日の時点で終わっていた。もうひとつのメイン記事、黒夢の取材も3月8日に終了していた。2月26日に国立代々木競技場第一体育館で行なわれたライヴを経たうえでのインタビューだった。

その公演会場界隈で開場前に周辺取材として来場者のコメントを集めていた際、僕に声を掛けてくれた気仙沼市出身の19歳の若者がいた。当時、大学進学に伴って上京していた彼は、現在は地元に戻りデザイナーとして活躍している。ツイッター上でもそのことは知っていたが、その彼から先頃、手紙が届いた。そこに何が書かれていたかをここで明かすわけにはいかないが、彼の名前と言葉は『MASSIVE Vol.2』の記事の中にも引用されていて、被災からまだ間もない頃に誌面にそれを見付けた彼自身ばかりではなく、地元のご両親もとても喜んでくれたのだという。その報告自体が僕にはとても嬉しかった。

その『MASSIVE Vol.2』は、震災発生の時点で半分くらい作り終えていたわけだが、もう半分くらいは余震におびえながら作っていた。確か発売日も当初の予定よりも遅れてしまい、5月に入ってからとなった。ぶっちゃけ、発売中止にしたほうがいいんじゃないかという想いも抱えていた。こんな状況下で音楽雑誌なんか読む気になれるものなのだろうか、という疑念を抱いたからだ。しかしそこで逆に「そんな時にしか聞けない話もあるはずだ」とも思えたし、そんな時期だからこそ届けたいと思える記事もたくさんあった。この号には、ずっと目標にしていたライヴが震災の影響で中止になったPay money To my PainのKや、震災発生の数日後、とあるツイッターのフォロワーから届いた「今だからこそこの曲を聴いて欲しい」というメッセージを切っ掛けに知った高橋優のインタビューも掲載されている。ちなみにその曲とは‟福笑い”である。

あれこれと書いてきたが、このブログには結論やオチがあるわけではない。ただ、あの当時の記憶と気持ちを忘れずにおくべきなのだろうと思い、こうして書き留めているに過ぎない。あの時の僕は「その時にしか書けないもの、届けられないものがあるならば、なんとかそれを形にして出すべきだ」と考えていた。需要の大きさがどれほどであるかとは関係なく。いや、もちろんたくさんの人に読んでもらえるに越したことはないが、誰かひとりでも結果的にそれを読んで良かったと思ってくれる人がいるならば、それが、続けていくべき理由になるのだと思う。

気仙沼市のA.S君、ありがとうね。今、『MASSIVE』と共に経てきた10年が間違っていなかったことを、僕は実感しています。そして「震災から10年」というのがゴールではなく経過であるのと同様に、これから先もあの日のこと、あの頃の気持を忘れずに進んでいきたいと思っています。

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増田勇一のmassive music life

いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。