1992年4月20日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで『フレディ・マーキュリー追悼コンサート』を観た。その時のことはこれまでにもたびたび書いてきたが、フレディ・マーキュリーが表紙を飾っているrockin' on誌5月号でも改めての検証記事的なものを書いているので、是非お読みいただきたい。
このコンサートは実に見どころの多いものだったが、なかでも圧倒的だったのはジョージ・マイケルのパフォーマンスであり、一気に株を上げたのはEXTREMEだったように思う。ブライアン・メイからの「この地球上で他の誰よりも、QUEENがいかなるバンドであるかを知っているバンド」という最上級の紹介の言葉に導かれながらステージに登場した彼らが披露したのは、大胆にも“Mustafa”を幕開けに据えた見事なQUEENメドレーだった。しかもQUEENの音楽的多様性をギュッとコンパクトに凝縮したそのメドレーを演奏し終えると、ゲイリー・シェロンとヌーノ・ベッテンコートのふたりだけで“Love Of My Life”を披露し、そこからの自然な流れで自らのヒット曲“More Than Words”へと至る、という完璧なショウを繰り広げたのだった。彼らがこの日、演奏したオリジナル曲はその1曲のみだった。
同時期、彼らはイギリスで、”More Than Words”も収録されている『PORNOGRAFFITTI』アルバムから“Song For Love"をシングル・カットしている。そしてこのシングルにカップリング収録されていたのがブライアンをゲストに招いての、“Love Of My Life”のカヴァーだった。
このイベントのレポートとEXTREMEのシングル評は、当時僕が籍を置いていたBURRN!誌の1992年7月号に掲載されている。そして同じ号には、スウェーデンの記者によるEXTREMEのインタビュー記事もあり、その中でゲイリーはブライアンとの出会いについて次のように振り返っている。
「ヨーロッパ・ツアー中、幸運なことにブライアンと出会い、共演することができたんだ。ハマースミス・オデオンでの演奏中に彼をステージに呼び込めるなんて最高の気分だったよ。その時は“Tie Your Mother Down"を一緒にやったんだけど、その場にオーディエンスが居ることを忘れてしまうくらいだった(笑)。彼はこのバンドを気に入ってくれて、ディナーにまで招待してくれてね。結果的にそれはフレディが亡くなる4日前のことだったんだけど、食事中、彼はフレディのことについてはまったく触れなかった。そして、フレディは逝ってしまった……」
「その後、ブライアンに電話をしたら『フレディのことを隠していて済まなかった』と言われたよ。そしてその時に追悼コンサートの計画について聞かせてくれて、ブライアンは僕らにも出演して欲しいと言ってくれたんだ。こんなにも光栄なことってないよね。その後、僕らは南米ツアーのリオデジャネイロ公演の時に、“Love Of My Life”から“More Than Words”へ、というメドレーを演奏したんだけど、それを音源にもすべきだと考えたんだ。でも、そんなことをしていいんだろうか、という迷いもあった。フレディのことにかこつけて商売をしているように思われたくはなかったしね。そこでブライアンに相談してみたところ、とても冷静に受け止めてくれて、しかもそのレコーディングへの参加まで引き受けてくれたんだ。つまりこのカヴァーはQUEEN公認であり、僕らからの贈り物のようなもの。収益は、すべてエイズ基金に寄付されることになっているんだ。おまけにその電話でブライアンは、追悼コンサートで“One Vision”か“Hammer To Fall”を僕に歌って欲しいとまで言ってきてね。思わず電話機を落としちゃったよ(笑)」
結果、彼は同公演の際、EXTREMEとしてQUEENメドレーを披露するばかりではなく、ブライアン、ジョン・ディーコン、ロジャー・テイラー、さらにはBLACK SABBATHのトニー・アイオミという顔ぶれにより演奏された“Hammer To Fall”でヴォーカルを担当している。
あの日のEXTREMEのライヴ・パフォーマンスに触れて、彼らに対する認識を新たにした、という人も少なくなかったはずだ。僕自身としては、それ以前から音楽的にも姿勢の面でも共感をおぼえていた彼らが正当な評価を獲得したことが嬉しかった。当時の上司は彼らのことを「小賢しい」などと言っていたけども(苦笑)。
そしてこのフレディ追悼公演から7カ月後には、僕はBURRN!を離れることになったのだった。その話は、またいつか。
増田勇一のmassive music life
いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。
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