それは1990年10月下旬、国際電話を通じてKREATORのミレ・ペトロッツァのインタビューを行なった際のこと。バンドは第5作にあたる『COMA OF SOULS』のリリースを翌月に控えていて(日本発売は12月)、バンドはその発売を待たずして欧州ツアー中。取材日に指定された当日、彼らはフランスに滞在中だった。
時差についてもちゃんと確認をして、約束の時刻にバンドの滞在先ホテルに電話をかけ「こんにちは。そちらにお泊りのペトロッツァさんのお部屋に繋いでください」的なことを英語で伝えたところ、回答がないのでもう一度同じことを伝えると、電話を切られてしまった。電話番号を間違えたのかもしれないと思いながらかけ直してみると、応答の声は明らかに同じ人物で、同じことを伝えると、今度はこちらが喋っている途中で切られ、3度目のトライの際は「ハロー?」という挨拶がマズいのかと思い「ボンジュール?」とひとこと言ってから「フランス語が喋れなくて申し訳ないんですけど、お泊りの……」と言ってみたのだが、やっぱり途中でガチャンとやられた。
フランスの人たちが自国の言葉にすごく誇りを持っていることは知っていたし、それこそ「フランス人に英語で話しかけたら聞こえないふりをされた」みたいな話は聞いたことがあったが、まさかホテルのフロントがそんなことをするとは思えなかったし、もしかしたら自分の英語が拙いせいじゃないかとも考えた僕は、当時の発売元レコード会社の担当者に連絡し、同社の渉外担当の米国人の方に電話してみてもらうことにした。あいにくその方もフランス語は喋れないとのことではあったが、おそらくそれで解決することだろうと思っていた。ところが数分後にその担当者からの電話で伝えられたのは「ネイティヴな英語でも駄目でした。話にならないのでインタビューについては仕切り直しにしましょう」ということだった。
結果、それから数日後、バンドがフランス各地での公演日程を終え、イギリスに渡ったタイミングで改めて国際電話インタビューをすることになったのだが、その際は何の問題もなくスムーズに本人に繋がり、無事に話を聞くことができた。当時の僕は、単身での海外出張や通訳無しの電話インタビューをするようになってからまだ間もない頃で、毎回いちいち不安になっていた。ただ、だからこそ質問事項などについても入念に準備をしていたし、ホテルに電話をかけて部屋に繋いでもらう際の言い回しなどについてはすでに慣れつつあった。しかしこの時ばかりは「ホントにこういうことってあるんだな」と思わされたし、以来、フランスに対してちょっとした苦手意識が生まれてしまった。
だからその後、実際にフランスに出張する機会が巡ってきた際にはちょっと気が進まなかった。とはいえ仕事なのだから仕方がない。フランス語を喋ろうとする意欲が伝わればきっと大丈夫だろうと思いつつ、出発前にあれこれ言葉を叩き込んでおいた。現地に着いて最初に話をしなければならない相手は空港でタクシーに乗った時だったりするわけだから、滞在先ホテルの名前だけはちゃんとした発音で伝えられるように準備もしておいた。具体名は書かずにおくけども、そのホテル名はいまだにしっかりと憶えている。
そして実際、タクシーの運転手にそのホテル名をフランス語っぽい発音で告げると、容赦のないフランス語で何やら言われたので「すみません、フランス語は喋れないんです」と英語で伝えたら、彼はにこやかに「いえいえ、とんでもない。そこは素敵なホテルだと言ったんですよ」と英語で返してきた。その時の気分は「なんか素敵やん!」という感じ。そして同時に僕は「ああ、良かった。あの時のホテルのフロントのような人ばかりではないんだ」と安堵した。その後もフランスに渡航する機会は何度かあったが、滞在中にあの時のような想いをすることはなかったし、妙な苦手意識もなくなった。ただ、フランス語云々という話になると、いつも僕はあの時の電話対応のことを思い出してしまう。それもそれで、今となってはいい想い出というか、意味のある経験になったような気がするけども。
すったもんだの末、バンドが英国滞在中に行なったKREATORのインタビューは1991年1月号に無事掲載。同号の表紙は、映画『LORDS OF CHAOS』の中でポーザー向けバンド扱いされていた当時のSCORPIONSだった。
増田勇一のmassive music life
いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。
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