日記を書き始めれば三日坊主であっさり終わるのがいつものパターン、などと昨日書いたが、中学3年生の頃から大学1年ぐらいまで毎週きちんとつけていたものがあった。『全米トップ40』のランキング・ノートである。毎週土曜日、当時のラジオ関東で土曜の夜に放送されていたこの番組を聞くようになると、いつしかチャート専用ノートを作ってそれを記録するようになっていた。月曜日になると洋楽好きの仲間たちが休み時間に集まってきて、それを眺めながらあれこれと語り合ったものだ。もちろんそこには常に『ミュージック・ライフ』の最新号もあった。
当初は原題やアーティスト名のスペルもわからないから当然のように邦題とカタカナでノートを付けていたが、高校3年ぐらいになると英語で書くようになっていた。僕の通っていた高校には都立高にしてはめずらしくLL教室なるものがあったのだが、肝心の先生方がその設備を使いこなせず、残念ながらそこでヒアリング能力が養われることはなかった。が、『全米トップ40』を欠かさず聞いていると、チャート関連の英語だけは何故か聞き取れるようになっていたものだ。たとえば「number eighteen with a bullet」といえば「18位で(急上昇を示す)赤丸付き」という意味。実際、この番組でしか聴いた記憶のないピート・ウィングフィールドという人の"Eighteen with a Bullet”(1975年)というヒット曲もあった。
あれは高校2年生の最後の日のことだったと記憶しているのだが、ちょうど『全米トップ40』でアシスタントDJを募集しており、そのオーディションを受けに行ったことがある。記憶はとても曖昧なのだが、2000人を超える応募があり、書類審査を経た数十名がラジオ関東に集められ、洋楽に関する筆記試験、アナウンス・テストみたいなものが実施された。僕自身はそこで15人に絞り込まれるところまでは通過できたのだが、そこから最終的に採用された6名の枠には残ることができなかった。結局、当日は記念品のタオルをもらって帰ってきた。そして数週後から番組に登場するようになったのが矢口清治さんや今泉圭姫子さんたちだった。
あの時、万が一、最後の6人に残っていたら、僕は高校在学中から憧れの番組でお手伝いをするようになっていたのかもしれない。が、もしもそうなっていたら今のようにモノを書くことを生業にするようにはなっていなかった可能性もある。ただ、どちらにせよ、中学~高校時代にあの番組を毎週チェックし、幅広く音楽に触れていたことは、間違いなく自分にとって財産になっていると思う。先月、PAUL STANLEY'S SOUL STATIONの来日公演を観に行って、知らない曲がほとんどなかったのも間違いなくあの番組を聞いていたおかげだ。ただし当時の僕は、いわゆるソウル・クラシックスをリンダ・ロンシュタットやヴァレリー・カーターなどによるカヴァーで知ったわけなのだが。
当時の『全米トップ40』ノートと高3当時の学生証。ノートの表紙に貼られたRAINBOWのステッカーは、何故かある日、下校時に校門を出たところで配布されていたもの。字が汚いのは深夜に睡魔と闘いながら書き付けていたから、ということにしておきたい。
増田勇一のmassive music life
いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。
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