カート・コバーンからの忠告。

2月20日がカート・コバーンの誕生日だということを知ったのは、ほんの数年前のことだったように思う。悲しい話だが、1994年4月5日が彼の命日であることは記憶していても、彼が生まれたのがいつだったのかについてはあまり意識したことがなかったのだ。

カートが誕生したのは1967年2月20日のこと。1961年の同じ月に生まれた僕よりもちょうど6歳下ということになる。僕が大学に進学した頃、彼は中学に上がったというわけだ。

彼には二回だけ会ったことがある。最初に会ったのは1991年11月26日、イギリスはブラッドフォードでのこと。その街の大学構内にあるホールでNIRVANAのライヴがあり、その開演前に僕はカートとの単身インタビューを行なう機会に恵まれたのだ。しかもそれは結果的に、日本人記者による初めての彼との対面取材となった。

僕は当時、BURRN!誌の副編集長で、出張ではなく休暇という扱いで渡英していた。その時期にイギリスに飛べばNIRVANAを二度観ることができ、さらにウェールズの田舎町まで足を延ばせばD.A.Dのライヴもある。僕はどちらも観たかったが、ヘヴィ・メタル専門誌としては〈どうしても取材しなければならないもの〉というわけでもない。だから休みをもらって実費で貧乏旅行をすることにしたのだった。まさかその英国滞在中に、フレディ・マーキュリーとエリック・カーの訃報を聞くことになるとは思ってもみなかったが。

その際のカートのインタビュー記事は、BURRN!誌の1992年2月号に掲載されていて、その後、彼の死後にMUSIC LIFEやDIG、近年ではMASSIVEにも再録されていたりする。会った瞬間のカートは、潤ませた目を不安定に泳がせていて、まさに心ここにあらずといった様子だった。が、取材にはとても丁寧に答えてくれたし、印象的なやり取りがいくつもあった。なかでもD.A.Dのイエスパ・ビンザーが表紙を飾ったBURRN!の見本誌を手渡した際に「もうすでに売れてビッグになっているアメリカのバンドばかりじゃなく、若くて有望だけどまだ広く知られていないバンドにこうしてチャンスを与えるというのは、雑誌としてとても素晴らしいことだと思う」と語っていたことが鮮明に記憶に残っている。その際のインタビュー・テープは今も大切に手元に保管してあるが、残念なことに僕はサインももらわなければ記念撮影もしなかった。単純に、まわりのピリピリした空気もあってそういう状況ではなかったのだろうと思う。

そのインタビューの翌日にはバーミンガムでふたたびNIRVANAを観て、さらに次の日にはウェールズのバックリーというところにあるクラブでD.A.Dを観た。もうすでに何度か取材していた彼らとはすでに友達のような関係性になりつつあって「カートがこんなことを言っていた」と告げるとみんな喜んでいた。

カートと再会したのは翌年2月、NIRVANAが初来日した際のことだ。その時の僕はインタビュー担当ではなかったが、取材立ち合いのためにホテルに行き、そこでパジャマ姿でベッドに座る彼に出くわしたのだった。隣には、コートニー・ラヴがいた。彼は僕のこと憶えていてくれた。イギリスでの取材時に僕が手土産に持参したお猪口のセット(成田空港の売店で購入した安物だが)を気に入ってくれていたらしく、コートニーに「彼なんだよ、あの酒のコップをくれたのは」と紹介してくれたのだが、コートニーは不機嫌そうに「あっそ」と反応するのみだった。その取材時以降、彼と顔を合わせる機会は残念ながら一度も訪れなかった。

彼があのまま年齢を重ねていたら、今頃どんな音楽を作り、どんなことを語っていたのだろうか。それはもはや想像すらできないことだが、あの時彼が口にした言葉は、今もメディアに携わる者として忘れてはならないものだと思っている。きっと彼なら今でも「すでに人気のあるやつらばかり扱っても意味ないじゃないか」と言うんじゃないだろうか。そして、思う。命日に喪失を悲しむことよりも、誕生日に大切な人の存在に感謝することのほうがより意義深いのではないか、と。



BURRN誌1992年2月号の誌面より。

カートとの取材の2日後、D.A.Dのウェールズ公演の楽屋にて、何故かヤコブ・ビンザーの髪を刈っている筆者は『NEVERMIND』のTシャツを着ている。実はこのあとバリカンの電池が切れて、彼は悲惨な髪形のままステージに立つことに。

0コメント

  • 1000 / 1000

増田勇一のmassive music life

いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。