自分の手を離れて作品が世に出た瞬間、それはみんなのものになるーーアーティストたちがよく口にする言葉のひとつだ。完成したものが市場に出回り、それを欲する人たちが実際に手にするようになれば、昨日まであくまで自分のものだった作品は、いわば多くの人たちが共有するものになる。しかもそれは不特定多数の〈みんな〉のものではなく、星の数ほどある作品群のなかからそれを選ぶ感性を持ち合わせた〈選ばれし者たちすべて〉にとってのもの。だからこそファン同士の連帯や同胞意識みたいなものも生まれ得るのだ。
作品が作者個人のものでも、そうした人たちの共有するものでもない瞬間というのがある。作り手自身がすべきことを全部終え、それが実際に世に出るまでの時間だ。その期間、たとえば音楽CDで言うならば、それは発売元であるレコード会社のものということになる。そのあまり長くない期間のうちに、発売元はその作品を、作者と受け手側の双方が満足する形で届けるためのさまざまな調整を行なうことになる。
清春が、不満を口にしている。2月末日にリリースされた彼の最新アルバム『夜、カルメンの詩集』には全10曲が収録されているが、そもそもここには全12曲が並ぶことになっていた。収録されないことになった2曲のうちひとつについて、それが〈規定により収録できない内容〉を伴うものであることが発覚したのは、最終締め切りギリギリまでかけながらその曲の音源が完成に至らしめられた直後のことだったという。清春が最終段階でその曲をそうした内容に作り替えた、というわけではまったくない。制作現場にずっと居合わせ、誰よりも注意深くそれを見守っていたはずの担当者がもっと早くその問題に気付いていれば、そのトラックが無駄になることはなかった。その曲は幾分の修整を加えた形でアルバムに名を連ねていたかもしれないし、仮にその時点で〈じゃあ今回は収録を見送ろう〉という判断になっていれば、レコーディング自体ももう少し早く終わっていたはずだ。
そうした予期せぬ事態を経て完成に漕ぎ着けた『夜、カルメンの詩集』だが、今度は発売と同時に別の問題が発覚した。昨年末にリリースされた『エレジー』と今作のW購入者に対する特典応募券のシリアルナンバー印字漏れが発覚したのだ。発売元は、当然ながら即座にこれについての謝罪と説明対応をしている。が、なんだかなあ、という気がしてならない。ファンにとって関心の対象はアーティスト自身や作品そのものであり、彼らすべてに日常的にレコード会社のオフィシャルサイトをチェックする習慣があるわけではない。家電製品について不具合が発覚して回収が必要ということになれば、たいがいはそうした広告が全国紙に打たれる。もちろん客観的に考えれば、今回の件はそこまで深刻なものではないだろうし、そうした対応は不要といえるのかもしれないが。
こうした現状について、清春は自らのツイッター上で苦言を呈している。しかし、ただ毒を吐いているわけではない。見落としたくないのは、彼がそこに、レコード会社側のアカウントへのリンクをちゃんと貼り付けていること。彼のツイートからは怒りや悔しさも感じ取れるが、それでも〈放っておくとレコード会社のサイトを覗かないであろう人たち〉を誘導しているのだ。そこに僕は、むしろ彼のやさしさを感じてしまう。
昨日、このアルバムと時を同じくして発売を迎えた『MASSIVE Vol.29』には、2万3,000字を超える清春の長編インタビューが掲載されている。会話は2時間半以上にも及んだ。実はその一部始終がノーカットで記事化されているわけではなく、僕自身の判断で割愛した部分もかなりある。同時にこのインタビューは、アルバム発売時期によくある全曲解説的なものではない。が、僕は、実際にアルバムを聴き、ブックレットを見れば誰でも気付くはずのことを訊くのではなく、何よりも彼自身の徹底的な美学追求の姿勢と、音楽家としての意識のあり方を浮き彫りにする記事を作りたかった。そして、実際にこれに目を通してくださった読者にならばご理解いただけるはずだと思う。何故、清春が、敢えて憤りを口にしたのか、を。
最後にひとつだけ付け加えておきたいのは、たとえ当初収録が予定されていた2曲が欠けていようと、つまらないミスによる問題が発売と同時に発覚しようと、この『夜、カルメンの詩集』というアルバムの絶対的な価値は変わらないということ。もちろん僕などがわざわざこんなことを言うまでもなく、このアルバムを実際に聴き、この世界を彼と共有し始めている人たちは、それを理解しているはずだが。
増田勇一のmassive music life
いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。
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