記憶の収納庫のなかでは、忘れがたい出来事とそれに伴う比較的どうでもいいことがセットになって保管されていたりするもの。要するに何かひとつ重要なことを思い出すたびに、同じ頃に起きたわりとどうでもいいことまで思い出してしまったりする、ということだ。
11月24日はフレディ・マーキュリーの命日である。1991年、僕はその訃報を何の因果かロンドンで聞いた。実際にロンドン入りしたのは11月25日のこと。確か彼がエイズに冒されていることを公表したというニュースを新聞で読んだその日に旅立ち、現地到着後すぐにそれを知らされたのだった。
実は同じ日に、KISSのドラマーだったエリック・カーも他界している。だからフレディが亡くなった時のことを思い出そうとすると当然のように彼のことも思い出されるし、その渡英時に取材したカート・コバーンがそれから2年半も経たないうちにこの世を去ってしまった時の記憶も鮮明に蘇ってくる。この時の記憶については12月5日発売の『BURRN!』誌1月号でも書いているのだが、そこでは書かなかったことをこの場には書き記しておきたい。
そうした記憶の連鎖のなかで僕が考えさせられるのは、自分の仕事の、あるべきスタンスについてだ。英国出張から帰還するとほどなく『BURRN!』2月号(1992年1月発売号)の編集会議があり、その場で僕の担当記事がひとつ増えた。編集長から、フレディの追悼記事を書くよう指示されたのだ。正直に言うと、僕は嫌だった。悲しいからではない。ヘヴィ・メタル専門誌の『BURRN!』では、それまでQUEENをろくに扱っていなかったからだ。確かにフレディの死は大きな事件だったが、そういう時にだけ記事するというのはなんだか納得できなかった。そこで僕は「エリック・カーの他界についても同等に扱って良いのならば二人についての追悼記事を書きたい」と申し出、結果、それを書くことになった。
その翌年4月、ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディの追悼コンサートが開催されることになった。当然のことながら、どうしても観たかった。けれども今度は「QUEENは本誌で扱ってきたバンドではないから」という理由で、編集部としての出張許可が下りなかった。結局、僕は休暇をとって自腹で飛んだ。しかも日本のレコード会社では公演チケットを確保できないということで、普通に団体旅行に申し込んだのだ。
実際、そのライヴはこれまでの人生のなかで体験してきたすべてのなかでも特に素晴らしいと思えるものだったから、僕がたびたび渡航するのを嫌っていた母親に「出張だから仕方がない」と嘘をつきながら現地に飛んだことについての後悔はまったくなかった。ただ、実費で渡航していながら僕は現地滞在中にMETALLICAやSEPULTURAの取材も行なっており、当然ながらフレディ追悼コンサートの記事も書くことになったわけで、そこについては「なんだかなあ」というわだかまりが少しばかり残ったのだが。
実は1991年11月の渡英も自腹出張だった。よくそんなに金があったものだとも思う。なにしろ当時の僕は、いち編集部員、つまり会社員であるわけで、どんなに記事を書いても固定給以上の何かをもらえるわけではなかった。当時の自分の経済状態についてはあまりよく憶えていないのだが、逆に大きな借金を抱えていた記憶もないから、かなり倹約していたのだろうな、と今さらながら感心させられる。
で、何を言いたいのかといえば、当時のそうした「これはどうしても観たい、取材したい」という気持を失わずにおきたい、押し殺さずにいたい、ということ。正直、そうして実費出張を重ねていた僕に対して「会社が編集者の意欲に甘えすぎているんじゃないか? 仕事のために自分の金を使うべきではない」と助言してくれる先輩方も業界内の身近なところに何人かいた。それはもっともな話だと思えたし、自分がしていることのほうが間違いなのだという自覚もあった。だけども僕は、自分の取材頻度を落としたくなかった。アルバム完成時に現地取材をした相手については、その作品に伴うツアーの取材もしたかったし、そうして取材の機会を重ねながら、アーティスト自身やその側近たちとの信頼関係が築かれていくのを止めたくなかった。
結果、そうしたものがあったからこそ僕はその後、『MUSIC LIFE』を任されることにもなったのだと思うし、編集部を離れてフリーランスになってからも、なんとか仕事を続けてこられたのだと思う。とはいえ正直なところ、50代後半になった自分が今のようなスタンスで取材活動を続けているとは思ってもみなかったが。
さすがに固定給という基盤のない現在(というかここ20年)は、観たいライヴがあるからといってそのたびに実費渡航することは容易ではなくなっているし、ただでさえ好きなものの多い僕の場合、そうしたすべてを追っていくことには無理がある。が、何かをやりたいと思った時、何かについて自分ならばベストな記事を作れると思った時に、それを口に出さずにいれば、その機会は勝手に失われていく。だから僕は、もちろん1991年当時のような動き方をするには無理があるけども、黙って依頼を待ちそれに対応し続けるだけ、というスタンスではありたくない。
しかも今の僕には、かつてのような「これからもっと大きくなりそうなものを追いかけること」のみならず、「素晴らしい歴史を良い形で伝えていくこと」というミッションも増えつつある。誰が、いついなくなってしまうかわからない。もちろん自分自身だって同じことだ。ならば僕は、あの頃の自分が恥ずかしがらないような今とこれからを過ごしたい。そんなことを思いながら、あれから27年を経た11月24日、フレディが死と向き合いながら制作に取り組んだ『INNUENDO』を聴いている。
そして最後にひとつだけ補足を。誤解して欲しくないのだが、僕はなにも、当時の酒井編集長を恨んでいるわけではない。仮に自分が編集長だったとしてもそうやすやすと出張を許可したりはしなかっただろうと思う。むしろ僕のこうしたスタンスができあがったのは……いや、ここから先は書かずにおこう。今となってはどうでもいいことだ。どうせ風は吹くんだし。
『BURRN!』誌1992年2月号の誌面より。
増田勇一のmassive music life
いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。
4コメント
2018.11.27 03:40
2018.11.26 21:16
2018.11.26 15:26