これは日本語版が出たらかならず読もう、と思っていたエルトン・ジョンの自伝『ME』が『エルトン・ジョン自伝』というそのものズバリの邦題で4月23日に発売された。これまで、読書は取材現場との往復の移動中とかライヴの開演待ちの時間などにすることが多かったのだが、今は自宅でしっかりと本と向き合うための時間を確保することができる。それを素直に喜ぶわけにはいかないけども。
で、この本がめちゃくちゃ面白い。映画『ロケットマン』はもちろん観ていたし、エルトン・ジョンが歩んできた歴史についてもある程度以上は把握していたつもりだけども、その人生の波乱万丈ぶりが想定していた以上にすごいばかりではなく、文章そのものが面白いのだ。どれくらい面白いのかといえば、この日本語版を読んだうえで英語版を読んでみたくなるくらいに。ただ、それを本当に実践するかどうかはわからないけども。
実はまだ読了には至っていないので、ちゃんとした感想は後日改めて書こうと思う。が、その前に今回はちょっと、この本のなかに登場する〈名前〉をめぐる話をしてみたい。
フレディ・マーキュリーに関する本を読んできた方々には馴染みのある話じゃないかと思うのだが、彼らは仲間うちでドラァグ・ネームというのを使っていた。エルトンはシャロンで、フレディはメリナだった。さらに言うと、エルトンとお互いに対してのいたずら合戦を長年にわたり繰り広げてきたロッド・スチュワートはフィリスと呼ばれ、フレディはマイケル・ジャクソンのことをマハリアと呼んでいたそうだ。マイケルがそれを歓迎していたかどうかはともかくとして。
ふーん、エルトンがシャロンか。そう思った時に頭に浮かんだのが、シャロン・オズボーンの顔だった。言うまでもなくオジー・オズボーン夫人である。彼女の父親は英国の音楽業界の大物、ドン・アーデン。かつてこの〈暗黒の帝王〉をドラッグとアルコールまみれの日常から救ったのがシャロンだったことは、オジーの最新アルバム『ORDINARY MAN』に収録されている‟Under the Graveyard”の、映画と見紛うほどのビデオ・クリップの内容からもうかがい知ることができる。
そしてこの『ORDINARY MAN』というアルバムの表題曲でピアノを弾き、オジーとデュエットしているのが、他ならぬシャロン、いや、エルトン・ジョンなのである。
オジーとエルトンがデュエット? この話を聞いた時、根拠はないながらも「これはきっとシャロン・オズボーンが間を取り持ったのだろうな」と感じた。そして、そのエルトンの仲間うちでの呼び名がシャロンなのだということを知って、なんだかおかしくなってしまった。
映画『ロケットマン』のなかでも描かれているが、エルトン・ジョンもまたコカイン、アルコール、過食といったさまざまな依存症により地獄を見てきた人物だ。というか、天国だと信じていたものが地獄だと知り、なんとかそこから抜け出して生き延びてきたわけである。
ロックスターたちの物語には、ドラッグやアルコール中毒、現実の自分との付き合い方、過去との決別、離婚や訴訟といったキーワードが重なるものが多く、ストーリー展開にもどこか似たところがある。ただ、それでもこうした本や自伝的映像などに惹かれるのは、それによって彼らの音楽の聴こえ方にいっそうのリアリティが伴ってきたり、長年信じてきたことが単なる思い込みに過ぎなかったことに気付かされたりすることがあるからでもあるように思う。
その意味においては、僕は〈音楽を純粋に音楽として〉聴いてはいないということになるのかもしれないし、サイド・ストーリーに惑わされていると言わざるを得ないだろう。が、歌詞の内容や背景も知らぬまま単純にメロディやサウンドだけに惹かれる音楽も、作り手の人物像やその人に伴うドラマに重ねながら楽しむ音楽も、僕にはある。
ただ、「あれは実はこういう歌なんだよ」と知らされる機会があったなら、それを拒絶せずにおきたいとは思う。その代表例は、エルトン・ジョンの‟Someone Saved My Life Toight”だ。この曲には”僕を救ったプリマドンナ”という邦題が付けられていて、確かに原題からも〈誰かに救われた歌〉であることには察しがつくし、歌詞にもプリマドンナという言葉が出てくる。が、その内容と邦題が喰い違っているんじゃないかということには、少年期にこの曲と出会って歌詞対訳を読んだ時からなんとなく気付いていた。もちろん当時はエルトンのセクシュアリティについても知らなかったわけだが。
エルトンの相棒である作詞者のバーニー・トウピンがこの曲で綴っている物語の内容と‟僕を救ったプリマドンナ”という邦題が真逆であることについては、映画評論家の町山智弘氏が2012年のブログで解説されている。
というわけで、物語の主人公=エルトン・ジョンはプリマドンナにより救われたのではなく、プリマドンナから救われたのだった。でもおそらく、プリマドンナのように振る舞った女性は若き日のエルトンを救ったつもりでいたのだろうね。そして、ちょっと思った。”僕を救ったプリマドンナ”という邦題は、オジーとシャロンの物語のほうにこそ似つかわしいのかもしれないな、と。
増田勇一のmassive music life
いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。
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