ボブ・キューリック逝去。蘇る28年前の言葉。

ボブ・キューリックが亡くなった。KISSの素顔時代を支えたギタリストであり彼の実弟にあたるブルース・キューリックのツイートで、そのことを知った。1950年1月16日生まれの彼は、ちょうど70歳だった。死因などについてはまだ具体的には報じられていないが、何よりもまず冥福を祈りたい。どうかその旅立ちが、安らかなものでありますように。

彼に初めて会ったのは1992年の2月下旬(ということはGUNS N' ROSESの東京ドーム公演直後あたりか)、前年にリリースされていたSKULLのアルバム『NO BONES ABOUT IT』のプロモーションのため来日した際のこと。取材場所は確か、千代田区九段北に当時あった一口坂スタジオだったと記憶している。

BURRN!誌では『READY 4 ACTION』というレギュラー・ページの4枠のうちのひとつ、つまりモノクロ1ページでの掲載に過ぎなかったが、そのインタビュー記事のなかで彼は、SKULLに関することばかりではなく、BALANCE時代にダイハツのCM撮影で初来日した時(1983年)のことから、キューリック兄弟の音楽への目覚め、KISSの『ALIVEⅡ』(1977年)のスタジオ録音曲や『KISS KILLERS』(1982年)などでプレイしている事実やその経緯、さらにはKISSとの付き合いがバンド始動期のオーディションの時から続いてきたことや、弟のブルースをKISSに推薦したのが他ならぬ彼であることなども、たっぷりと語ってくれた。あまりにもその発言量が多かったため、記事はQ+A形式ではなく、ちょっとしたイントロダクション以外はすべて彼の独白調でまとめることになったほどだった。

KISS始動期のオーディションを受けているということは、要するに当時のボブはエース・フレーリーに敗れたということになるわけだが、その際のポール・スタンレーとジーン・シモンズの態度に感銘を受けたと彼自身は語っている。

「彼らの態度は素晴らしかった。〈君のプレイは本当に素晴らしかったし、一緒にやりたいのはやまやまなんだが、このバンドのスタイルにはエースがよりフィットすると判断したので彼を選ぶことにした。だけど君とはこれからも連絡を取っていきたいと思う〉と言ってくれたんだ。そしてもっと素晴らしいのは、彼らが本当に私にコンタクトを取り続けてくれたことだ。彼らとは親友になった」

そしてボブは、KISS側が『ALIVEⅡ』のスタジオ録音曲について彼を起用した理由について、次のように語っている。

「彼らが私を使ったのは、私自身が〈KISSのニュー・アルバムで演奏しているのはこの俺だ!〉と書かれたサインボードを掲げて街を歩き回るような男じゃないからさ(笑)」

秘密主義などと言うと大袈裟だが、バンドのコンセプト上、口外すべきではない事実が多いのがKISS。そうしたルールを守ることができる人物でなければ、どんなに上手かろうと彼らと仕事をすることはできない、というわけだ。そしてボブは実際、そうした件について自ら触れまわるようなことはしなかったし、彼がこうした過去について語るようになったのはKISS側が伝説の内幕について少しずつ明かすようになってきてからのことだった。

ちなみにかつてジーンにそうした秘密主義的スタンスについて尋ねた際には「わざわざ言う必要のないことを言わずにきただけで、何かを隠したり嘘をついてきたりしたわけではない」という、それ以上突っ込みようのない回答が返ってきたものだ。また、ボブはその後、ポール・スタンレーのソロ・アルバムにも関わっているし、ジーンの紹介によってダイアナ・ロスの作品でプレイする機会に恵まれていたりもする。とはいえ彼の活動の幅は元々広く、ルー・リードの『CONEY ISLAND BABY』(1975年)にも参加していたりするのだが。

1992年2月の来日当時、彼はレコーディングに参加したばかりのW.A.S.P.の作品についても触れていて、「ひとつのストーリーに基づいたコンセプト・アルバムで、実に素晴らしい出来」と絶賛しているのだが、この作品こそが同年発表の『THE CRIMSON IDOL』だった。同作の制作過程やブラッキー・ローレスとのやり取りのなかでも学ぶところがたくさんあったと認めたうえで、彼は次のように語っている。

「人間というのは、そうやっていつまでも学び続けていくべきものだと思う。学ぶことを止めてしまったら、そこで成長も止まってしまうことになる。いくつになろうと、どれほど経験を積もうと、学ぶべきことは残されているし、ソロにしろ曲にしろ〈もっと良いもの〉というのはかならずあるはずなんだ」

そして密度濃いインタビューを締め括ったのは、次のような発言だった。

「私の良いところは、自分を世界一のギタリストだとは思っていないところかもしれないな(笑)」

もちろんボブ・キューリックは単なる〈謙虚ないいひと〉ではなく、押しの強さも、ビジネス・チャンスを見逃さない目敏さも持った人物であるに違いない。だからこそ、浮き沈みの激しいこの世界でサヴァイヴし続けてきたのだと思う。それは彼ばかりではなくブルースについても重なるところだ。そしてもうひとつ確かなのは、今から28年以上前に彼の口から聞こえてきたこうした言葉にも、いまだに学ぶべきところがたくさんあるということ。もっと良いものというのは、かならずあるはず。自己ベストの限界を自分で決めることなく、学びと成長を続けていきたいものだ。

BURRN!1992年5月号(表紙はJERUSALEM SLIM)に掲載された記事と、懐かしいBALANCEのシングル。中古盤店で、タダみたいな値段で手に入れた記憶がある。言うまでもなく、中央がボブ。

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増田勇一のmassive music life

いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。