50歳になったJと、23年前のBLITZでの記憶。

8月12日の夜、マイナビBLITZ赤坂で無観客配信ライヴを行なったJを取材した。この日は彼の50回目の誕生日。開演前には楽屋にお邪魔して、同じく50年前に生まれたある歴史的名盤のジャケット写真がプリントされたTシャツを、ささやかながらプレゼントした。そして光栄にも客席でライヴを丸々観覧させてもらった後は、この日に通販限定でリリースされた最新シングル「MY HEAVEN / A Thousand Dreams」のことも含め、少しばかり話を聞かせてもらった。その際の取材記事は8月21日付でBARKSにアップされているので、是非読んでみて欲しい。

また、同じくBARKSには、彼が去る6月27日に初めて配信ライヴを行なった際のレポートも掲載されているので、こちらも併せてお読みいただき、本来あるべき形でのライヴ活動ができにくいこの状況下での彼の考えなどを知ってもらえたらならば、取材者としても嬉しいところだ。

バースデー・ライヴの記事のなかでも触れているが、マイナビBLITZ赤坂はまもなく閉館を迎えるのだそうだ。厳密に言えば元々のBLITZは〈同じ界隈に位置していた違う会場〉ではあるわけだが、新旧のBLITZがJにとって所縁の深い場所だったことは言うまでもないし、なかでもLUNA SEA終幕直後に行なわれたソロ公演当日が大雪だったことなどは今も鮮明に憶えている。LUNA SEAに荒天がつきものだった理由はやはり彼にあったのか、と(笑)。当時の旧BLITZに辿り着くには結構な長さの階段を上らねばならず、積もった雪のために滑り落ちそうになるのが結構怖かった記憶がある。

僕自身が初めてJと対面したのも旧BLITZでのことだった。あれは忘れもしない1997年の夏、『PYROMANIA』ツアーの最終日のことだ。当時の僕はMUSIC LIFE誌の編集長で、いわゆる邦楽とは仕事上の関わりがほぼ皆無に近かったのだが、当時のレコード会社担当者がたまたま旧知の間柄で、『PYROMANIA』の発売に伴うプレスキット用に〈洋楽側からの推薦文が欲しい〉ということで原稿を書かせていただいていたのだ。実際、当時はLUNA SEAのライヴも一度も観たことがなかったが、アルバムについてはその担当者が送ってくれていたので耳にしていた。そして、バンド像を自分なりに把握していたつもりだったからこそ、『PYROMANIA』を聴いた時に衝撃をおぼえたのだった。

初めて顔を合わせて挨拶をさせてもらった時、Jに対して抱いたのは〈ちょっと生意気そうだけど筋が通っている感じの若者〉という印象だった。その時はほんの二言三言、言葉を交わすのみに終わったが、その時からの縁が2020年の現在も続いているというのは自分でも驚きだ。まさか彼の50歳のバースデー・ライヴの現場に立ち会うことになるなんて、不思議だとしか言いようがない。

そういえば、Jとの初遭遇の機会となったそのライヴでは、hideがアンコール時に登場。彼とはこのライヴの少し前に再会したばかりだったのだが、終演後の関係者挨拶の場で、彼にある若者を紹介された。「増田さん、ちょっとは英語できるでしょ? コイツ日本語ができないからしばらく話し相手になってやってよ」と言われ、僕はその初対面の、青年というより少年に近いルックスの若者と話をすることになり、そうこうしている間にhideはどこかに姿を消していた。そしてひとしきり英語での会話をしたところで、その若者が一言、「英語うまいね」と日本語で言ってきたのだった。彼の名前はKEN LLOYD。要するにこれは、hideが僕に仕掛けたいたずらだったのだ。

今回のJの配信ライヴの記事を書きながら、そんな1997年のBLITZでの記憶が頭の中に蘇ってきた。あの時点では、まさかその翌年に自分が会社を離れてフリーランスになり、ほぼ時を同じくしてhideがいなくなってしまうなんて想像もできなかった。こうしてあれこれ思い出すたびに、そして誰かの人生の節目に立ち会えるたびに、さまざまな巡り会いに感謝せずにいられない気分になるし、こうして自分の人生が続いていることの幸運さも感じずにはいられない。来年の今頃は、51歳になったJの記事を書きたいものである。

▲『PYROMANIA』のプレスキット(関係者向けの宣伝資料)。担当者が僕への原稿発注を思い立ったのは、多分、同作にスラッシュが参加していたからでもあると思う。しかも、そこに旧知の〈DOOMの藤田さん〉が関わっていたことにも縁を感じてしまう。

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増田勇一のmassive music life

いつのまにか還暦を過ぎてしまった音楽系モノカキの、 あまりにも音楽的だったり、案外そうでもなかったりする 日々。